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今、武田信玄のことについてレポートを書いているのですが、wikiなどはごちゃごちゃしていて
歴史をあんまり知らない私にはとてもわかりにくい内容なんです…。武田信玄のことについてレポートを書くならどんなことを書いたらいいでしょうか…。私は風林火山のことについてをまず書こうと思っているのですが、レポートの枚数が多ければ多いほどいいので、なるべく多く内容を書きたいんです。回答待ってます!

  • 質問者:匿名希望
  • 質問日時:2010-01-14 06:29:56
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何を持ってして「風林火山」なのかを調べて書くと武田信玄の一面がよくわかると思います。あと時間があるなら武田信玄の小説など読むと全体的に把握できていいと思います。
大河ドラマの武田信玄の原作者である新田次郎の「武田信玄」はとても参考になると思います。

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地元民には、いまだ信玄公と呼ばれ敬愛されています。

武田信玄と呼び捨てにせず、信玄公と公を付けるか、
親しみをこめて信玄さん。と呼びます。

また全国的には、あまり知られてはいませんが、
信玄堤という水害防止の堤防を築いています。

これは今も現存していて、実際に役に立っています。
現代の技術的なことから見ても優れた構造だそうです。

今は桜の名所として有名です。

  • 回答者:甲州人 (質問から13時間後)
  • 4
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とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。

風林火山と並んで有名なのが、「人は石垣、人は城」じゃないでしょうか。
武田節の一節にもなっている名言ですね。正確には、
「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」ですが。
この言葉は実際に信玄が言ったのではなく、後世に後付された逸話とされていますが、
国の基盤は人心にあるという信玄の考えが伺えます。

戦国時代以前の日本というのは江戸時代以降と違い、
義理や人情、正義や悪なんかの倫理観が比較的に薄い傾向がありました。
戦国ともなれば裏切りや親族同士の殺し合いは日常茶飯事だったので、
そういった気の許せない人間をまとめ上げていくために、
人の心を繋ぎとめておくことが非常に大切だったわけですね。
そのためか、躑躅ヶ崎にあった信玄の居城は、城ではなく単なる館だったそうです。
城や石垣、城郭などなくとも人心が集まっていれば国は守れるという考えでしょうかね。

  • 回答者:ausgc (質問から6時間後)
  • 6
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とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。

武田信玄といえばライバル上杉謙信との5度にわたる川中島の合戦す。戦国時代きっての天才で変人の上杉謙信にみそめられたのが信玄の運のつき、謙信と12年間も川中島の合戦をやっていなければ、織田信長より早く天下をとれたのに。

  • 回答者:匿名 (質問から4時間後)
  • 2
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とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。

風林火山はもともと中国(チャイナの中国です)の戦国時代の兵法家の書物にある言葉なので、そっちを調べるとよいと思います。

  • 回答者:親か (質問から31分後)
  • 2
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とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。

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